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大島石とその歴史

最高級の墓石材、大島石

大島石は
最もバランスのとれた 石材だと
プロの間では 評判が高い。

色は白すぎず 黒すぎず。
石目の粗(あら)さは
細かすぎず 
粗(あら)すぎず。
片寄りのない 花崗岩である。
まるで 仏教のシャカの教え
中庸(ちゅうよう)
そのものである。

しかし、堅さは堅い。
水は 吸い難(にく)い。
変色は し難(にく)い。
なんとも言えない
青みをおびた石肌は
日本美の気品と風格が漂う。

大島石の歴史

今から約400年の昔、藤堂高虎侯が家康の命を受け伊予の国今張の浦に城を築きました。
今治城は当時としては大変めずらしい海辺りの平城であります。足場の悪い砂地の中に
石積みをして城を造る事は当時としては大変困難な大事業でありました。
石積の棟梁は治衛門(はるえもん)という名人で、彼は伊予国西条藩の干拓工事で
石積の下働きをした後、秀吉の大坂城築城で腕を磨き一人前に成りました。

彼は1602年(慶長7年)今治城築城の12人の棟梁の1人として召し出されました。
城は慶長9年に完成しましたが彼らは石垣だけでなく、秘密の抜穴も
造りましたので、漏洩を恐れて、死刑にされる事になってしまいました。
それを事前に知った治衛門は、夜1人で竹いかだに乗って向いの大島に逃れました。
島の1番高い念仏山の中腹鐘突堂に隠れ死罪になった友の冥福を祈りました。

現在も今治市宮窪町余所国には治衛門の築いた石垣が残っております。
又、城の近くの今治市蔵敷町には死罪になった10人の塚が
残っているそうです。

この治衛門が大島における石材業と小田家の始祖に当る人であります。
本家は、大島を離れましたが、石屋の技と治衛門の血筋は分家6代の小田満弘が引き継いでおります。
大島の石が産業として成り立ち始めたのは明治の初年頃からで土木材料や築港の為の石材としてであります。 日清戦争に備えての広島県呉市の軍港の整備・明治42年完成の大阪市の心斉橋・東京の赤坂離宮等その歴史の重みを感じる事が出来ます。

大島石を使った代表的工事例

硬くて劣化しない大島石は、明治時代から全国で建築資材として多く使われてきました。
昭和に入ってから加工技術が向上して、墓石を中心に使用されるようになりました。

大阪心斎橋

撮影 明治時代

大阪心斎橋

竣 工 明治42年11月23日
総工事 ¥72,234−
石工事 ¥16,500−

西郷隆盛先生 銅像台原石

撮影 昭和8年12月

西郷隆盛先生 銅像台原石
(九州に建設)

石寸法 216才
巾120寸×高さ30寸×厚み60寸
石代金 ¥1,300−
  • 明治27年 海軍省
    明治28年 奈良帝室博物館
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    明治41年 大阪心斎橋
    明治44年 京都 四条大橋 七条大橋
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    大正9年 大阪図書館
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    昭和6年 高野山 金剛峯寺 金堂
  • 年月不明
    東京 日本銀行
    満州 大連弯埠頭
    島根 出雲大社 大鳥居
    東京 東宮御所
    大阪 難波橋・大江橋・戎橋・住吉橋・淀屋橋・大正橋等
    地元 道後温泉・石鎚神社大鳥居
    遠く 北海道釧路港

大島石の下に眠る人達

作家 司馬 遼太郎、 軍人 秋山 好古、 俳人 正岡 子規 など

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